競泳水着フェチの人は多くいらっしゃいますが、中にはフェチというよりは「たまにパートナーにコスプレしてくれる程度でいいや」いう方から「自分自身も着用していたい」「常に身につけておいてもらいたい」と考える本格的な性癖を持った人まで様々な方がいらっしゃいます。
実際に自分のパートナー(ほとんどの場合男性であるかもしれませんが)が、もしそうだったらどう振る舞えばいいか、というのは男性はともかく女性にとっては深刻に思うケースが多く、受け入れられないものでない限りは深く悩んでしまうものです。
彼からたまに競泳水着をを着てほしいと言うならともかく、常に身につけてもらいたいと言われれば、困惑してしまうでしょう。
もしその欲求を断ってしまったら別れを切り出されるかもしれない・・・なんてことにもなりかねないと思うと、笑い話ではだけでは済まされないかもしれません。
そんな競泳水着に執着する性癖を持った人とどう接すればいいのか、競泳水着が好きな人にはどんな心理状態があるのか、ということについて考えてみました。
結論から言えば受け入れてあげることが大事
最初に結論から言うと、もし彼が女性用の競泳水着を着用することが好きだったり、あるいは彼女に着せたがっていたりするような場合(逆も然りですが)は、自分が宗教上の理由とかライフスタイルと著しく反していない限りは受け入れてあげることが大事ということです。
後に述べますがフェチというのは、正常な性生活(という表現が妥当ではないと思いますが、とりあえず)から見れば異常が生じたものであり、そのフェチを持ち合わせている人にとっては、何らかの心理的なトラウマ、精神的に傷を負っているからです。
「フェチ」が悩みであると考えるならば、それが自分にとって納得の行く形で消化できない限りは心に残り続けることになり、いつまで経っても解決できない苦悩に変わることは想像に難くないと思います。
そう考えると「受け入れる」という行為は、ある種の救済となります。「フェチ」というのは「好き」とは次元の違う、その人自身の生き方にも直結しているからです。
パートナーには欠点があるもの
どんな人にも欠点はあります。わかりやすい部分で言えば「お金がない」「酒癖が悪い」「口下手」などなど。どんなに好きな相手だったとしても、性格的にあるいは社会的に必ず良い部分、良くない部分があるのは誰でも理解できることだと思います。
その上で「フェチ」というのは、人を作り上げる上での一つの要素であり、あなたのパートナーが競泳水着フェチであったとしたならば、それもパートナーの側面の一つなのです。これは先に述べた「お金がない」とか「酒癖が悪い」と同等と考えてもいいでしょう。
「お金がない」と「競泳水着が好き」ではレベルが違うじゃないか、と思われる方もいると思います。しかしこれは解決のためのアプローチの仕方が違うだけで「欠点」という意味では同列です。
例えば「お金がない人」の場合、「自分自身が稼ぐ」とかできる女だったら「パートナーを稼げるように仕向ける」といったことが欠点を補う解決法になりますし、「女性用競泳水着を着用するのが好き」という人だとすれば、それを許す、認めれば解決できます。もちろん一緒にプレイが楽しめれば最高なのかもしれませんが。
そして「競泳水着を着せたがっている」という欲求に対しては、素直に着れば解決できる、ということなのです。
先程「お金がない」と「競泳水着フェチ」が同列であると述べましたが、もちろんお金の問題は人が生きる上で必ず必要な話なので、死活問題です。一方、「競泳水着フェチ」というのは死活問題ではないにせよ、その人がどう生きるか、というクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の問題です。
実は全く関係のないような話に見えて、双方とも「人生を生きる」という点においては、一緒なのです。
フェチは「悩み」の一つでありコンプレックスの形
日本人の性に対する考え方は、特に世界的に見ても性に対して開放的であると思われている反面、あまり触れたくない、蓋をしておきたい類にものである、と考えられているアンビバレンツを孕んだ国民性があります。
親切な人で、どんな悩みには応えることができても性に対する欲求、特に変態性のあるフェチという分野については、自分の理解が追いつかずなかなか応えることが難しい、と思う人が多くいます。
それは先述の国民性に起因する部分があるかと思いますが、こうしたことから変態嗜好のようなフェチは理解されにくい土壌があり、またフェチを持ち合わせている人にとってもそれがよくわかっているので「言い出しづらい」「自分を表現しづらい」と思っている人がほとんどです。これが一つの悩みとなり、コンプレックスのように思っている人も少なくありません。
ペドフィリアの人たちをLGBTに参列させるか、という点で議論が巻き起こったこともありますが、ペドフィリアの人たちは好きで幼女を愛したいという欲求を持っているわけではなく、そういう考えをもって人生を過ごしてしまった土壌、その人自身の考えがあるということで、確かに幼女は好きかもしれないけれども、好きでそう生まれたかどうか、というのは議論の余地があるかもしれません。
いずれにしても彼らは時折、どこかで苦悩しています。それと同じでたとえ服装のフェチであったとしても、それが解決できない限りは苦悩し続けるものではないでしょうか。
精神医学から見たピッタリフェチの心理状態
ところで、競泳水着フェチを自認する人にはどんな心理状態にあるのでしょうか。
この話題がなぜ気になったのかと言うと、競泳水着の特性として肌にピッタリと吸い付いたような感覚が好きな人が多い、というのはわかっていたことですが、同様にぴったり好きな人はどんな背景があるのだろう、と気になったからです。
そうした点について調べていたところ、こんなことを話されている方を見かけました。
残念ながらジオシティーズのサービスが終了してしまったため、こちらのサイトはなくなってしまいましたが、上記サイトの筆者は自らがピッタリフェチを自認していて、精神科医であるそうです。
そんな方(この記事では以下、A氏とします)がドイツの医学書を元に詳しくピッタリフェチの人が持つ精神状態について話されており、とても参考になりましたのでご紹介しつつ、見解を述べていきます。
ピッタリフェチにはどんな人がいる?
A氏の話によるとピッタリフェチの人は程度の差はあれど、基本的に病んでいるということに言及されています。
ピッタリフェチを性癖として持つ人は、ある時期において何かの理由で追い込まれたことがあり、それがトリガーとなってピッタリフェチになってしまった、と話されています。
何かの理由、というのは特に定まったものではなく、例えば仕事に追い込まれた、思春期にいじめられていた、常に緊張にさらされる環境で過ごした、といったものが挙げられます。A氏の場合は両親の不仲だったということで、おそらく家に安心できる居場所がなかった、ということではないでしょうか。
この点はなるほど合点がいくことがあって、例えば筆者のまわりでもこんな方がピッタリフェチだということを自認した上で打ち明けてくれたことがあります。
- 元自衛官(男性:競泳水着フェチ)
- 会社役員(男性:全身タイツフェチ)
- 元警察官(男性:競泳水着フェチ)
- 会社幹部社員(女性:全身タイツフェチ)
- 自営業(女性:ラバーフェチ)
- 元上場企業社員(女性:競泳水着フェチ)
なるほど職業だけのイメージで言えば、矢面に立たされたり、時間的に非常にタイトな方、緊張を強いられる方ばかりです。もちろんこれらの職業の方がすべてピッタリフェチであるということは言えませんが、精神的にゆとりのあるような方はほとんど見かけなかったような気がします。
ピッタリフェチの重度
A氏の話では、ピッタリフェチと一概に言ってもピッタリ着用できる衣装によってその重度に違いがあると考えられています。
軽度であると言われている全身タイツフェチ
まずは全身タイツ。日本で生まれた略語「ゼンタイ」がそのまま海外でも使われているほど認知度の高いフェチですが、これが一番軽度とされています。
全身タイツフェチの人が持ち合わせている心理状態としては、信頼できる人に抱擁されたい、嫌なことから隔絶されて生きていたい、という表れなんだそうです。秋葉原で配布されているフリーペーパー、「秋コレ」でフェチ考察記事が連載されておりましたが、その中でも自分が何者であるかということから開放されたい、という思いから着用する人が多くいらっしゃるようで、この点についても嫌なことから開放されたいという思いがあることが見受けられます。
重度であると言われているラバーフェチ
次にA氏はラバーキャットスーツを挙げています。ラバースーツは全身タイツと比べるとさらに重度の高いフェチとA氏によって認定されており、さらに精神的に歪みの大きなフェチであると考えられています。
先述の信頼できる人に抱擁してもらいたいという点においては、同じであると考えられていますが、通気性がまったくない素材で全身を覆う行為というのは、信頼できる人に抱擁されたい、嫌なことから隔絶されたい、という思いがさらに増幅した形だと指摘しています。
特にラバーフェチは全身タイツフェチと違って、顔をラップやゴムで覆う窒息フェチ、ギチギチに縛り上げる緊縛といったフェチにも波及していますが、共通点は使役する(つまり窒息させたり、縛り上げたりする人)の絶対的に信頼し、自分の生命すらその人に委ねてしまう、という点で、このことで充足感を得るのではないかとA氏は述べられています。
一方、競泳水着ではどうか
その一方で競泳水着についてはどうでしょうか。全身タイツやラバースーツのように頭から全身にかけて覆うことはありませんが、肌にピッタリフィットする、という点においては同じです。
競泳水着フェチの方の中には、布に覆われたお互いをなで合いたいという願望もあるため、その点で考えると全身タイツよりはいくらか軽度のフェチであると言えるかもしれません。
それでは男性であれば男性用の競パンを身につければ良いのではないか、とも考えますが、それは程度の問題であり、布面積が多いほうが、より相手に対する精神的な欲求が高いのではないかと考えられます。
中には女装癖があるわけではないけれども、女性用の競泳水着を着ることが好き、という人もいるので、自身の精神的安定を相手にどの程度求めているかという指標にもなると思います。
また女性用競泳水着を着用する人においては、純粋に女装好きであったりすることもあります。こちらのほうが考えやすいかもしれませんが、変身願望というのも自分自身の辛い現実から開放されるための一つの手段かもしれません。ただし、人によっては性同一性障害による行動ということもありますので、ケース・バイ・ケースで考えたほうが良いでしょう。
フェチは矯正できないのか
もしかしたら人によって「フェチは矯正できるのでは?」と考える人がいるかも知れません。
自分自身が受け付けないということであれば、そういた発想に至るのも自然なことかもしれません。
しかし、これはお互いにとって不幸なことにしかなりません。
その理由はフェチというのは、その人の生き方であり、悩みであり、人生を楽しく過ごすためにある根底そのものです。それを全否定しようとすれば、たちまち活力をなくし、別の行為に発展する可能性があります。
A氏も述べられていますが、リストカットなどの自傷行為、あるいは覚醒剤、ドラッグに覚えてしまう可能性もあると指摘しています。フェチというのはその代替行為ということで、少なくとも法律的には無害であるはずです。
もし自分で受け入れられないと感じたら、早々に別れてしまうのもありですが、そうとは行かないのが人の難しいところ。例えば当サイトのような競泳水着写真集を購入することを認めることや、自分自身が着用する分には何も言わないところから始められてはいかがでしょうか。写真集については下記リンクから見てみてください。きっとこんなものかと思うはずです。
フェチの人の悩みを解決するのは受け入れることですが、その前にできることは「矯正」ではなく「理解」です。
まとめ:ピッタリフェチに対する接し方
このようにぴったり系の衣装を愛する人、競泳水着を愛する人、それぞれに程度の差はあれど、フェチというのは精神的な悩みが表面化されたものであり、その人自身を構成する一つということはくり返し言ってきました。
その上で、もしパートナーが求めてきたのであれば、それに応じるということが、その人にとっての救いになり、ひいては日々、元気に過ごすことができるようになる第一歩になるのではないかと思います。
もちろんあなた自身の性格やライフスタイル、考え方というのもあります。ただただ受け入れることができるのであれば、お互いにとって幸せなことですが、いやいや受けてしまうのも考えもの。
お金の話やライフプランの話をするように、フェチを含めた性生活についてもしっかりと話し合うことが大切なのではないでしょうか。今それが求められている時代なのかもしれません。
パートナーを救うか、救わないかはあなた次第ですが、少なくともこの点についてはしっかりと留意しておりましょう。
逆にこれを読んでいるパートナーに求める側の方は、自分を受け入れてくれているという感謝の気持ちを表すことを忘れてはいけません。
この点については十分すぎるくらいパートナーへ伝えるようにしましょう。愛があったとしても、やっぱりギブアンドテイクですから